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国際消防情報 イタリア編
国際消防情報協会 企画調査員 神谷 早苗

歴史・習慣

「長靴の形をした国」と言えば誰もがイメージするのがこの国。地中海に面し、アペニン山脈が南北に走り、酸性の土壌からは良く肥えたトマトとオリーブ、それとワイン用のブドウが採れる。人々はとても陽気で暇さえあれば歌を歌っている。

特にイタリア男は女にとても優しく、出逢うたびに甘い言葉をささやき、情熱的に迫っていく。友人の消防士に聞いたところ、「Just Habit. (ただの癖さ。)」と英語で答えてくれたが、本当にお調子者が多い国である。しかし、そんな彼らも熱心なカソリック教徒(国民5700万人の90%)で毎週日曜日には教会に通い、日頃の罪?を懺悔している。

宗教芸術でも名高いイタリアは、古代ローマ(紀元前8世紀)およびルネッサンス期(14世紀から16世紀)は世界史の中心であり、有名なレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの多くの芸術家や思想家を生んだ。実際にこの国に入ってみると、あちこちにこの3人の作品があり、どの作品も完成までに10年かかったとか、20年かかったとか説明がある。全部足すと彼らはそれぞれ200年以上は生きていた計算になったが、、。それだけ、この3人が残したものは、壮大かつ偉大であり、多くの人に感動と夢を与えたと言える。

なかでも、ローマから汽車で90分ほど南に下ったカッシーノにあるモンテ・カッシーノ教会(B.C.529年創建。建築面積2万平方メートル)の礼拝堂に描かれた天界を表す壁画、大理石柱のカラフルな組み込み彫刻、木の椅子に彫られた今にも飛び立ちそうなエンジェルを観ると、信じられないほどの精度、技術を彼らが持っていたことがわかる。また、宗教がどれほど人を動かす力を持っていたかがわかると同時に、その宗教の力を利用して人々をコントロールしたローマ帝国400年間(紀元前8世紀〜紀元前4世紀)の権威を深々と感じる場所でもある。

その偉大さからか、「第2次大戦中、大型爆弾が投下されたが、神の力によって爆発を逃れた。」という逸話があるが、本当は建物は粉々になり、中にいた護衛兵すべてが戦死した(イタリア宗教史1948年版より)。まだまだ、この地方および教会について神による逸話がたくさんあり、どれも、私の調べた限りでは、真実は他にあり、証拠となる文献も発見できたが、それが真実かどうかということよりも、何が人々の心を動かし、目に見えない”神”にまつわる逸話が生まれるのか?大変深い興味を持った。

宗教について

イタリア北東部アドリア海北端にある港湾都市、水の都ベニス(ベネチアとも呼ばれ、118の小島からなる。)にあるベニス消防局本部の一日は礼拝に始まる。消防署内に300人収容のカソリック教会があり、毎朝ここに、全職員が集まり、神およびイエス・キリスト、消防の女神セイント・バーバラ(彼らは、マドンナと呼ぶ。)に祈りを捧げる。これから当務するものは勤務中の無事と家族の安全を祈り、帰宅するものは、当務中無事であったことに関する感謝、これから始まる一日が良い日であるように祈る。彼らにとって、教会(神に触れる場所)は完全なる人生を過ごす上での生活の基盤であり、なくてはならないものである。なぜ宗教がそこまで人間に作用するのか?日頃、社会常識として「政治と宗教に関わる話はすべきではない。」と言われるが、今回それを好奇心の力を借りて打ち破り、詳しく彼らに迫ってみた。

1、神について

ここで、彼らの信ずるキリスト教でいう神という概念について説明する。キリスト教は、神という特別な神があるわけではなく、他のあらゆる信仰における神と全く同じである。

人々は、人生の混沌の深い淵の上に、自分なりの世界を作って、日常生活を送っているが、この慣れ親しんだ世界が、自分では欲してないのに、外側から突き崩されてしまう。それは、戦争であり、災害、突然の失業(退職を含む。)、一家離散(離婚、身内の死を含む。)、病気などである。

このような外的状況の変化が起こると、個人的な心の中に内的危機が生じる。それは一切のものが移ろい行くという「無」の感覚である。頼りにしていたものが、例外なく頼りにならないこと、自分の生命でさえ永続するものではなく、死が待ち受けていることを身に沁みて感じた時、「私はこの宇宙の中の一体何者なのだ。」という実存的疑問を突きつけられる。

しかし、人生そのものから、また、この気色の悪い詰問から、人は何とかして逃れようとし、昔は良かったと過去の中に隠れようとする。さらに、無限とも思えるような可能性が開けてくる外的状況の変化が起こると、人は、その可能性、すなわち「有」に圧倒されて、身がすくむという内的危機が生じ、「私は何をするのか、一度しかない自分の人生を何のために使うのか?」という実存的疑問に突きつけられる。この場合、人は決断を一日延ばしに延ばすという浮遊型の逃避をする。このような人生の生と死に関わる真剣な問いの中ではじめて神についての疑問が起こる。

すべての人は生活のために未来の安全を確保しようと努力するが、いかにしても絶対の安心は与えられない。また、真実や美を求めるが、それらは永遠には続かない。また、孤独の中から愛を求めるが、他人の心の壁を突き破ることはできず、終局の孤独に突き返される。

また、人は限りなく知識を求め、仕事への衝動に駆られるが、最終的には限界があることを悟る。また、義務の観念から善をなそうと欲するが、いつも失敗し、良心の呵責に悩む。これが人間の偽りのない現実である。

人生のあらゆる局面で、人を生活へと押しやり、しかも限界づける不思議な力を誰もが経験する。歴史の中に侵入してくるこの不思議な力、生命を与え、生命を奪うこの不思議な力、それが神である。

ある人たちは、これを運命、宿命、不条理、自然摂理、また時の悪戯とも呼び「神も仏もあるものか。」と叫び、これを恨み、反逆し、あるいは諦める。しかし、苛酷な自然と悲惨な王国の歴史から学んだイスラエル人は、この人生現実の神秘に対して、ヤーウェー、あるがままに「在りして在るもの」(Let it be. or Leave it alone.)と説き、その前で生きようとしたのである。イエスはこの神秘的な力に対して、冷酷な運命ではなく、私を愛している「父なる神」とよんだのである。

余談として、1989年10月のアメリカ教会協議会では、キリスト教界166派のうち半数近くが、一般の社会に比べて教義、聖職位階制の中に、女性差別と判断できる内容が多いとし、「教会内における女性差別撤廃運動」がおこり、以前まで「父なる神」という言葉で神を表していたが、神が男性である証拠がないとして「母と父なる神」と表現を変える教会が増えてきた。

余談の余談であるが、現在、世界中で女性消防士が増加しているが、男女差別の問題は各消防局でも頭を抱えており、5年前にアメリカのウイスコンシン州に世界女性消防士連盟が設立された。いつか、機会を見て、詳しく紹介したいと思う。

2、キリストについて

人は誰しも、自分のまわりに築き上げられた独りよがりの幻想の中に生きている。しかし、この幻想の自己物語(たとえば、理想の夫、良きパパ、信頼できる上司など)が時として、他人または自分自身によって打ち破られる出来事(不倫、うわさ、告発など)が起きる。誰しもこれを自ら望んではいないが、これを避けることは出来ない。

人との出会いの中で、日常的に起こるこの出来事を「キリストの出来事」と呼ぶ。それは、自分が生き甲斐と思っていたこと(幻想)が否定されることであるだけに、幻想を打ち破られた人の一般的態度は、打ち破った相手に対しては「復讐」を、また自分に対しては、自己嫌悪を抱き、ときには自殺を考える。

しかし、幻想を打ち破られた人の取り得るもう一つの態度がある。それは、自分が勝手に幻想していたような立派な人間ではないことが骨身に沁みてわかった時にはじめて起こることで、自分は言われたとおりの人間であると認める態度である。その時に、真実に生きる可能性の地平が開けてくる。その時に、人生そのものが宣言する「言葉」を聞く。この言葉ははじめから在ったものであり、可能性についての言葉である。それは、次のように宣言する。

喜ばしい「存在の不条理」の言葉、道徳を越えた人生に対する根元的な存在論的肯定の言葉である。人間が生きて行けるのはこの言葉しかないが故に、すくいの言葉である。イエスはこの言葉をそのまま生き、また教えた。彼の教えを要約すれば、人々が自分たちの外側に期待しているような、状況解決のメシアは未来永劫に現れはしない。人生はハッピーエンドが待ち受けているという幻想に死ね。今与えられている現実人生を生きよ。幻想に死ぬということ(十字架)が、すネわち未来的に生きるということ(新しき命、復活)である。恵みと裁きは切り離せるものではなく、裁きはすなわち恵みである、ということである。

3、祈りについて

「苦しいときの神頼み」という言葉で表されているように、祈りとは自分の好都合なことを自分を依怙贔屓(えこひいき)してくれる神仏に願いを求めることだと一般的に考えられているが、これは誤りである。

人間ならば誰しも、自分をとりまく世界の中で自分の将来の行動を計画する。行動を起こす前に、その行動の結末を見通しながら意識化する行為を古来から祈りと名づけてきた。すなわち、祈りとは「決意表明」であり、祈りの末尾の「アーメン」はヘブライ語(イスラエル言語)で「真実その通り」の意で、現代風には「異議なし」である。イエスは自分の一生を計画するに当たって、荒野で40日40夜断食して祈り、また、重大な方向転換の場面では必ず祈っていた。キリスト教徒にとって、祈りは人生を形成する人間化の課程の上で欠かせない行為だと言える。

少々長くなったが、なぜ彼らが署内にまで教会を設ける必要があったか、わかっていただけると思う。また、どうして、社会常識として宗教の話題として取り扱わない方がよいのかも実感していただいたかと思う。

消防事情について

1、ペスカラ・ボランティア消防局

イタリア半島の東海岸中心部、アドリア海に面したペスカラ市(人口25万人)にあるこの消防局は、局長をのぞいては、すべてがボランティア消防士(72人内女性4人)で構成され、火災を始め、レスキュー出動、救急、アニマルレスキュー、車両整備、予防イベント企画・実行まですべての職員がすべてをこなす。

署内を視察して驚いたのは、バー(もちろん、酒をのむところ)が朝8時から17時、20時から23時まで開いており、教会での祈りの後は、署内のバーでのどを潤し、勤務にあたるという、日本人の常識では考えられない(比較する方がおかしいのかもしれない。)1日の始まりである。飲酒についてどう思うか尋ねてみたところ、「イタリアには飲酒およびタバコの年齢制限がなく、3歳のころから、いままで、毎日、朝昼晩かかさずワインを飲んでいるけど酔っぱらった試しはないよ。」それから、「酔っぱらったイタリア人は見たことがない。」とまじめな顔で答えてくれた。また、「いくら飲んでも酔わないのではなく、自己管理(セルフコントロール)ができるからのんでもいいのさ。」と自慢げに答えてくれた。

わたしも署内視察の途中で、のむと顔が赤くなるのも忘れて白ワインを一杯呼ばれたが、案の定、真っ赤っかになり、署長から「熱があるんじゃないの?」と心配そうな顔で聞かれた。飲んで顔が赤くなるのは副交感神経の発達したアジア人の特色らしいとあとで気付いたが、、、。

2、ミラノ消防局

イタリア北部に位置し、この国の経済の中心部であるミラノでは、市内全体に植えられた街路樹であるポプラ(ヤナギ科、アメリカヤマナラシ、日本では西洋ハコヤナギと呼ばれる。)による花粉症が社会問題となっている。イタリア厚生省健康局では、毎日のように市民からの苦情電話(ポプラ撤去要請!!)が後を絶たないが、撤去、道路改修、人件費、その他すべてを含めると膨大な予算となるため、7年計画で検討しているそうである。実際、市内を歩くととんでもない数の白い綿のような花粉がフワフワ飛んでおり、日本では1度も花粉症にかかったことのない私もとうとう花粉症の仲間入りをしてしまった。

ミラノ消防局視察研修中は、ティッシュペーパーでは、もの足らず、トイレットペーパーを片手にとても苦しい思いをした(思い出すと今でも鼻がむずむずする。)ミラノ消防局には、私のペンフレンドでもある、ルスコーニ・サルジオ氏(京都市消防局の宮脇 健氏から紹介していただいた消防ヘルメットコレクター。)が勤務しており、彼の案内で消防局の地下にある消防局博物館を見学させていただいたが、さすがイタリア=ルネッサンスを感じさせてくれるほどの内容であった。館内は200年前の耐熱服や潜水セット、防毒マスクをはじめ、150年前の救急馬車、100年前のはしご車など、古くから信じられないほどの救急救助技術を持っていたことがわかる。

なかでも特に1809年と記された縦1m、横70cm、厚さ10cmの消防功労者名簿は、その古さの中にも輝かしい消防活動の数々が綺麗な筆記体で記録されており、その時代の消防士たちの社会的地位と誇りを感じさせてくれた。

おわりに

イタリアは、古くから芸術の都であり、消防の歴史においても良い意味でルネッサンス思想が残っている。ヨーロッパの消防文化を比較研究するうえにおいても中心となる国だと言える。また、実際に入ってみると”温故知新”を心から感じ、これからの消防の文化を築いていく我々に対して、歴史の大切さを身を呈して教えてくれる”文化の教師的存在”とも言える。

今回、宗教(カソリック系キリスト教)をサブテーマとして、みなさんに投げかけてみたが、イタリアに行って「神を信じるか?」と聞かれたら、「Si(シィー)」(イタリア語で”はい”と言う意味)と答えるにようにお勧めする。私は、「わからない。」と答えたために、7人の消防士たちに取り囲まれ、3時間近くの説教(説法)を聞かされてしまった、、、。

*参考文献「世界の宗教と教典」自由国民社